昭和49年10月16日 教祖大祭
おめでとうございます。今日はこういうお天気にも恵まれまして、教祖大祭をつつがなく奉仕させて頂きました。まことにお目出度い。それでどこがお目出度いのかと問われたら、これだからお目出度いと言えれる人が、どの位あるだろうか。本当にお目出度いのか。私は御大祭、神様おめでとうございますと。例えば御挨拶を申し上げる時にも、神様が一つもおめでたいような顔をなさっておられないとするなら、どうでしょうか。神様お目出とう御座います。目出度いなぁと。
神様も是に御返事を下さる様なおかげを頂いて初めて、目出度いという事が言えれるのです。それは言うならば、神様が助かっておいでられる。神様の願いが成就しておる。だから目出度いのです。又は私共が助かっておる。私共がおかげ被っておる。だから目出度いのです。ですから神様と私共が「目出度いなあ。」「目出度いのう。」と言うて、御挨拶をかわせれるというお目出度い。只礼礼しゅうお祭りが奉仕できたから目出度いのではない。私が助かり神様が助かって下さるというそれが目出度いのです。
却って神様に苦い思いをさせる様な事で、神様にお目出度いと申し上げても、神様は決してお喜びは頂かない。それこそお目出度いという返事になって帰ってこないと思います。神も助かり氏子も立ち行く。神様と氏子が助かりおうていくというのが、お道の信心であります。今日は御装束をつけてもう時間ですから、こちらへ出ろうとしておる所へ、久留米の近見市長以下の方達が、私の一番奥の部屋までやってみえられる。まっ忙しゅうしてある所に、相済みませんけれども大変な、重大な市政の事についてのお願。
はお伺いであった。この十九日二十日が千人あまりの人が集まって、野外で会合しなければならない事がある。万事にお繰り合せを頂くと同時に天候の上にも、おかげを頂かなくてはならない。二十日は久留米の久留米オリンピックか何かというのがあるそうです。ですから十九日二十日を、どうぞおかげを頂きますようにというお願いでございました。やっぱりこちらがあの神様が時間ぎりぎりで、慌てておられる時ですからね。神様がお返事下さるのが早い。まだ向こうのお届けが済む前にお返事を下さった。
だからそれが右ですよ。左ですよというてまあ御遣させて頂いた訳で御座いますけれども、本当に有難いですねえ。例えば久留米の市長さんが市政の事の上にまで、金光大神の御取次を頂いておかげを頂く。それは久留米市民の真実の助かりのために、この前みえられた時に、いろいろ話をさせて頂いとりましたら、「親先生。あなたがおっしゃるように、この世の中から争いがなくなり、貧乏がなくなり病気がなくなる。
そういう世界が権限されたら、どんなに素晴らしい事でしょうか」「できますよ。金光大神のお取次を頂いていくならできます」と言うて申し上げました。どうでも久留米市政の上にも、合楽示現活動に参画させて頂いて、愈々そうした神様の願いの言うならば、理想都市の建設に邁進させて頂かなければならんと言うて、帰られました。昨日一昨日、伊万里の竹内市長が御用にみえておりました。
もうここへ参られますともう菜っ葉服。パァッと着替えられましてから、もう十三日に大体御用ができておりますから、わずか残っておる。だからまあわずか十人か二十人の方達が御用を頂いております。その中に混じって一生懸命御用をなさって、もう夕方までおかげを頂いておられます。一緒に御用を頂いた方達がもう大変感動した。竹内先生と御一緒に御用ができた。ある方がお届けをしておられました。私はもう二十年位合楽に御神縁を頂いておるのですけれども。
御大祭だからというて御案内を受けて、お参りする事はありますけれども、御大祭だからというて御用させて頂くと言う事は、今日が初めてでございました。お参りをして帰らせて頂こうと思うたら、福岡の川上さんに捕まった。もうこの人に捕まったらおしまい。(笑)それこそ示現活動の第一線に立って、もうバスの中であろうが電車の中であろうが、もう本当に自分の横に座られた方。
これはもう御神縁ができたんだと言う様な考え方です。日に六人も七人もの示現活動ができる。まっこれを言うならばお導きのお話ができる。金光様の有難いお話ができる。そういう熱烈な方に捕まったんですから「そげな事がありますもんかい。あぁた今日は御用を頂いておきなさい。」「はぁ御用させて頂こう。」と言うて、御用をさせて頂き頂き、竹内先生あたりと御一緒の御用の中にです。もうそれが嬉しゅうして、楽しゅうしてこたえん。この方はお金も沢山持っておられます。
商売も繁盛しておられます。この頃から立派な御建築もできました。ところがねその家庭の中に別に喧嘩、争いするわけじゃないけれども何とはなしに、所謂心の悩みである。この心の悩みを一つ解消したならば、もう自分の家には言う事ないというほどしの方なのですけれども、神様はなかなかねそう簡単にあれもかげこれもおかげと言う事になってこない。その時にねこう言う様なお話を、朝の御理解に説いておりますのを、聞いておられます。丁度十三日会のここで信心共励会がございます。
午前中御用奉仕をなさいます。この度は大祭前の十三日でしたから、三時まででした。ですから共励もほんなわずかな時間でございましたけれども、その朝の御理解を皆さん頂いておかげを頂いた。福岡から東さんという方がお参りをして来ます。ここでひちりきの御用頂いておる方のお母さんです。もう二十数年前からの御信者であります。「先生。私は初めて、親奥様のお夢を頂きました。親奥様のお夢はちょいちょい頂くんですけれども、親奥様のお夢は、初めて頂いた」と言うのです。
「どういう夢を頂いたんですか」「親奥様が、赤ちゃんをおんぶしようとなさっておるから私が後から行って、赤ちゃんをおんぶさせてさし上げる所のお夢でございました」それで私が申しました「東さん私の方の家内の、もう取柄は一つもないですけれども、ただ辛抱強い事。」とそれから例えて家庭の中で申しますと、とにかく若い者が楽になるように。若い者が楽になるようにという事だけしか考えておらんようです。言葉に出して言わんから分からんけれど、その私はお夢を東さんから聞かせて頂いてです。
私は改めて家内が素晴らしいなと思いました。もう本当に若い者が楽。それが小さい事にまで。ちょっとこればこれだけしてやっとくと、あの人らが楽になるからと言う様なものが、本当に感じられるのです。これは私の母の一つの譲り受けとも思われます。私七人の子供がおりますが、引き上げて帰ってまいりましてから、次々と子供ができます。母が申しておりました。私が強いうちにサッサと生み上げとかんな。もう乳母車の中に、おうて手を引っ張って、そしてお家でお参りがあって。
お話が聞かれんから下のお宮まで連れて行くね。もうそれこそそうですねぇ。言葉で言うならば自分を空しゅうしきっておると言う事だと思うんです。自分を犠牲にする事を平気でおると言う事です。親のためには勿論ですけれども、主人のために又は子供達のために、自分というものをいつも空しゅうしきっておる。所謂若い者が楽になるように若い者が楽になるようにというのです。
そういう成程考え方であろうと思うです。まだ家内と話した事もございません「お前そんな考えが。」と聞いた事はないけれども、私は側におってそれを感じる。その東さんのお夢を頂いてです。改めて成程本当にそうだなあと私は思わせて頂いた。そしたら東さんいわく私は本当にそれ言いなさりゃ、子供達がねとにかく年寄りを大事にしない。親を親と扱うてくれない。それがどことはなしになら喧嘩、口論になっとるわけではないのですけれども、やっぱりどこんか不平不満があるわけですね。
ですからどこんかそれがありますから、それが色々な場合に形になって現われて出てきたり、色々するわけですね。先日から長男の子供に「あんた、お婆ちゃん好きね。」って言うたら「も面見るのも好かん」て言うた。どうですか皆さんお孫さんから、「面見るのも好かん。」口じゃ言わんばってん、心で思われとるような方はおんなさらんでしょうか。それから今度は弟息子さんが、すぐ側に所帯持っとりますから、おとうと息子の子供に聞かせて頂いた。
「あんたお婆ちゃんな好きね」ち言うたら「まあまあ」ち言った(笑)そういう例えば、お話が朝の御理解の中にあった。それをその方は聞かれた。本当に教養もおありになる。財産もあり家も立派に、お店も繁盛しておる。どことどう言う所はないけれども、息子達夫婦の事が、いつも不平不満が心の中に、こう言うならもやもやしておる。はあほんなことこりゃ私もこりゃ若い者が楽になるように。若い者が楽になるようにと言う様なあり方をしなければいけない。
いつか親先生のお話の中にも「とにかく、信心させて頂いて、人が喜ぶ事ばかりを考えておったらいいんですよ」という、それと思いあわせでそれを感じた。本当にそうです。信心というのはね。おかげを頂く人はです。人が喜ぶ事ばっかり考えているんです。それがそのまま神様がお喜びになるのですから、おかげを受けない筈はありません。それから、十三日の御用が終わりましたから、もうせめて三時ぐらいからでも暫くでも、共励しようというので私の話を聞いて頂いた。
その中でねその言うならまん座の中で、今の話をしたんです。そのユメを頂いた所だけはええけれどね、孫がそれこそ「ばあちゃんが、面見るとも好かん。」と言うた事から、下の孫が「まあまあ。」と言うた事やらを東さんがこういう風な話があり、お届けがあったと皆さんならどうでしょうか。まん座の中でそげなその事をです。家庭円満でない事。不和である事。しかも孫からつらつき、そんなに面ぎがもえるような事を言われた事を、又親先生が皆の前で発表しなさったと言うて。
私は腹かく人があるだろうと思います。ここで御理解を頂いた時には、さほどに思わなかったけれども、まん座の中で新館ででしたか。まん座の中でその事を言われた時に、まぁ「本当にそうだと思うた。」と思うたと言うんです。親先生の言われる通りだと思うたと。帰りには、わざわざ、ここにお礼に出てみえられました。「今日はおかげ頂きました」帰り道々、一緒に帰られた方達にもです。「本当に、私はおかげ頂いた」と言うて、帰られたというのです。
「信心する者は、木の切り株に腰をおろしても、立つ時には、お礼を言う心持ちになれよ」と。そういう心持ちにならなければ、信心はできません。一切の物にお礼が言える。自分の都合のよい事。思うようになった事。自分が便利をした事には、お礼は言えるけれども、木の切り株と言やあ、もうこの世ではいらんものでしょう。必要でない物でしょう。それは必要でない物。自分に都合の悪い。
自分に分の悪い例えば事柄でありましてもね、その事柄に対して私は礼をいう心持ちが生れてこなければならないと思います。分かれば分かるほど確かに生神金光大神様のお取次を頂いて、天地金乃神様の御信心を頂くと言う事は、天地大自然そのままが、親神様。天地自然の働きそのままが神様の御働き、その神様の御働きが、私の方に都合ようばっかり働いて下さりゃ良いのだけれども、損になったり、痛い思いをしたりするような事も起きてくるのだけれども。
信心が分かると言う事は、天地の親神様の御心が分かると言う事だと思う。天地の親神様の御心。親が子供を憎うて、叩く親がある筈はありません。ここも分からせたい。これによって、力も与えたい。いや、ここのところの信心辛抱しぬかせて頂いて、お徳も授けてやろうという御神意、御神慮外にないのです。ですから例えばね自分の面ぎの燃えるような恥ずかしい事を言われてもやはり、それにお礼が、本当におかげを頂いたという心がね、私は「木の切り株に腰をおろしても。
立つ時には礼を言う心持ち」というのは、そう言う事だと思う。先日から殆ど若い先生方ばかりでしたが、三十五名もう全国から集まって来ました。合楽ファンの先生方ばっかりです。所謂先程若先生が申しておりました、合楽示現活動に参画するというテーマでのお話であり、研修でございました。もう皆さん。私は丁度十時間お話しました。二日間ですからね。終わり二時間ばっかり時間が長くなりました。それでもまだ、立とうと致しませんでした。皆。
本当におかげを頂くと言う事は、自分が今まで知らなかった事は、分からして頂くという事。そこで所謂合楽示現活動と言う事について、なぜ合楽示現活動がなされなければならないか。始めの間は、それに抵抗を感じた先生方もあったんです。合楽示現とか申しますから、いかにも合楽教会の事だけのための、いわゆる、示し現わすと言う事だと。合楽を現わすと言う事だと。合楽教会を現わす事だという風に誤解するわけです。そこで皆と話し合いました。
だから皆さんが合楽という言葉を使って、そんなにこう抵抗を感ずるなら、もっともっとね適切な言葉があるなら、それを変えてもいい「御取次成就信心生活運動」合楽という事は、どういう事かというと、言うならば人間と神様がです。喜び合うと言う事なんです。合楽というのは、天と地が一つになって喜び合うという事なんです。言うならば「神も助かり、氏子も立ち行く」金光様の御信心は、そこなんです。私がおかげを受ければ良い。私が助かれば良いというのではなくて、私が助かった。
それをです。愈々神様がより助かって下さる事のために、私共が信心生活を進めていくと言う事が、金光教の信心だと思うんです。だから「あいよかけよ」神も助かり、氏子も立ち行く働きの言うならば示現活動というてもいいわけですけれども、それではゴロが悪い。やっぱり「合楽示現」この頃から、御本部からみえられました星山先生が、二日間一生懸命に、もう七十才からのお祖父さん先生でしたが熱心ですね。その晩丁度青年会があってましたが、その青年会の十二時頃まで、一生懸命お話を聞いておられる。
テープを何十巻と、私のテープを全部写して帰られる。そして合楽示現活動の神意というものを、明くる朝帰られるまで、一生懸命求めて下さった。「この合楽示現活動というのは、それこそ今こそ教団人全部が、本物いわば中央に持ってきて、この運動の示現に参画させてもらわなければならない事ですね」と言うて帰られましたそういういわば大変な、私は運動だと思います。皆がおかげを頂いて本当に有難い。私は丁度示現活動が始まってもう一か月ちょっとになりますでしょうか。本当にこの事を言い、私が申し出しましたら、毎日毎日が、奇跡の連続であります。これは、本当にね、驚くばかりです。
今毎朝九大の病室から韓国の方で、李さんという方が朝参って来ます。御主人が七年間入院してここに御神縁頂かれた時には、もう四、五日の命でありいわば、末期の症状が現われており、しかもその苦しみというものが、側で見ておれないほどしの苦しい。すぐ隣におられた方が、おかげを受けられたので、国籍こそ違えお縋りする神様はまあ同じだという話を聞かれて、毎朝お参りをして来られる。
その方が言うておられました。もうそれこそお金やら物やらは何にもなりません。お金はどれだけあるか分からん位に持っちゃる。レストランとかパチンコやら、色々沢山百人から従業員がおられるらしいです。けれども金やら物は何もならん。ここに言うならば、「主人が助かってさえくれれば」というわけであります。しかもその医者からも、宣言を受けておるし、又はその苦しみというものが、側で見ておられんような、せめてその苦しみだけでも取れるならというのであった。で
私が「ならとにかくその痛い苦しいが取れるように、先にお願い致しましょう。」と言うてお願いをしだしましたら、おかげで段々苦しみがなくなって、この頃ではもう二か月以上になりますでしょうけれども、おかげで一か月。やがて二か月という間は生き延びのおかげを頂いた。しかも最近は輸血が輸血をせんで済むほどしにおかげを頂いた。その方が始めてここにお参りをして来た時にはです。本当に先生死んだほうがましです。自動車で、自分で運転してみえます。
自分では自殺しきらんから、ダンプか何か大きな車が来てから、自分の車に突き当たってくれて、あっという間に死んだらさぞ良かろうとばかり、自動車を運転しながら、思うております。本当に、やっぱりし、それはうそじゃないと思いますね。本当に苦しい時には、死んだ方がましと言うて、死ぬだけの勇気はない。それだけ誰かが本当に自動車でも、事故でも起こしてもろうて、そして死んだらさぞ良かろうようにある。七年間も介抱しておられますからねぇ。病人さんを。
ところがおかげを頂いて、段々だからもうお参りを、とにかく私が四時の御祈念に出てくる頃にお参りしてみえるらしい。だから、御初穂だけ置いてから帰られる。そこでお話を聞いてもらわにゃあというので、吉井の熊谷さんが、ちょいちょいおいでられる。久留米の佐田さんが、又、ちょいちょいお花を持って行ったり、いろんなお土産を持って行かれる。しかし、真心ちゃ有難いですね。吉井の熊谷さんが、がめの葉饅頭を持って行きなさった。そしたら一つ食べてみろうと仰った。
いくつか食べなさった。それから食欲が出てきた。だから行くたびにがめの葉饅頭を持って行かれる「いやあがめの葉饅頭ちゃ、もう親先生の饅頭を食べるのと同じ事ですよ。私の事はね亀亀とこう皆が言うでしょう。だからこりゃ親先生が包んじゃる饅頭じゃから、おかげになりますよ。」と言うてね。まあ、おかげを頂いておる。でこの頃から、ちょいと行かれるたびに、お話をされる。ところが、主人の前ではしてくれるなちゅーて。これはあらゆるそうな、いろんな宗教が行ってですね。
あんまり話をするけんで、却って具合の悪うなるそうです。だからも宗教ちゃふるふる好かんて言いなさる。けれども今度の宗教だけは、ちたあ好いちゃるごたる風。その証拠には「なら早う参って、早う帰って来てくれ」とこう言われる。楽になっていかれるもんですから、自分が食べ物も段々味がついてきたんですから。そして先日です。その佐田さんがお話に行かれてから、いろいろお話をしておられたら、その李さんの奥さんが言われる事なんです。「今の模様ならこりゃおかげ頂こうごたる」と言われる。
医者もたまがっておる。そこでお父さんと昨日話しました「お父さん今度あなたが全快のおかげ頂いて退院しなさったら今度は一つ、思いっきり悪人になんなさい」と言うて、話よりますと言う。「それは私の口から言うともおかしいけれども、うちの主人ぐらい、人を喜ばせ、人を助ける事が好きな人はなかった。とにかく善人である。その善人がこういう途端の苦しみにあわなければならないような病気をするのだから、この世は矢張り正直者が馬鹿をみる世の中だ。悪人が栄える世の中だ。
だからお父さん全快のおかげを頂いたならば、今までの善人は打ち捨てて一つ、これからは悪人になりなさい。」と。ほんなこといっちょう御主も言われるそうです。「これからは、ちょっとばかり悪人にならないかん。」ち。私はその話を聞きよってから、涙が流れた。本当にねそれこそいまの社会学とでも申しましょうか。社会の難儀とでも言おうか。それに対する私はささやかな抵抗だと思いました。本気で今度良うなったら。今度退院のおかげでも頂いたら悪人になりなさい。
さそこで佐田さんがね「それは成程世間では、正直者が馬鹿をみるというのが、普通ですけれども、信心させて頂いておると、それこそばかとあほうで道を開けといわれるのだから、本気で金光大神の御教えに基づいて、ばかとあほうにならせて頂いたら、有難い事になってきますよ。徳が受けられますよ。煩わしい事が、段々なくなっていきますよ。」と言うて話された。
例えば馬鹿の代名詞のように言われる、いわば香取線香になる事なんですよ。これは信心がなからな、いわば馬鹿になりゃ馬鹿になっただけ。損でしょうけれども信心によって馬鹿にならせて頂くと言う事は、素晴らしい事なんです。勿論それに熱がかけられなければいけません。それこそ煩わしい者は落ちてしまう。もう信心は大きな信心が良いと仰せられますけれども、こういう私は大きな信心はないと思う。ばかとあほうになる事位。どんな事があっても。
黙ってこれで受けていこうという、大海のような信心ですから。ですからそこには必ずクジラの住むようなおかげにもなる筈です。改めて正直者でなからねばならない。善人でなからなければならないと言う事が分かった。もうこの頃は初めの間は、それこそ死んだ者のようにして参って来よんなさったけれどもね、この頃は生き生きとして参ってみえます。これなんかもまあ私は奇跡だと思います。
これは、二、三日前でした。日田の綾部さんのお導きで、御参りをしてきておられる方があります。私は、「信心せんでもおかげはやってある」という御教えがございますねぇ。この神様は、信心がなくても、おかげはやってあるのです。だから金光様の御信心とはです。お願いをして、おかげを頂いたというおかげが分かるなら、誰でも分かるけれども、今まで気が付かなかった。知らなかった。
是も神様の御恩恵。御恩徳の中にあったんだと分からせて頂いて、そして是は信心しなければ頂けないおかげを頂いて、これがあいまって行く所にお道の信心があると思うんです。私は是は反対の意味あいで、成程信心がなかっても、神様の働きがあるんだなあと思いました。お孫さんがね二階から下のたたきに落ちられた。頭蓋骨を割ってしまった。日田のお医者さんに行ったら「もう是は葬式の用意の方が」と言われた。
それでもまだ生きとるけん、とても日田ではできんからと言うて、久留米医大に連れて行かれた。そして四、五日間それこそ熱が続いて、このまま例えば生き返っても脳膜炎になるでしょうか。もう諦めなさったが良いと言わんばっかりの事 であったから毎日お参りをしてみて、それこそ泣きの涙でお届けがあっとりました。それがですその前々日にね私の方に弔電が来た。お悔やみの電報ですそれも松下幸之助さんからです。はあこげな縁起の悪い事があるじゃろうか。
そこで二人の息子さんにです。「あんた達は自動車に乗るから、交通事故にども遭わんように」と言うて、注意は致しておりましたが、まさか孫が二階から落ちるとは思わなかったと言うのです。けれども私はそれを聞いた時に思いましたね。成程信心はなかっても、いろいろ災難難儀が起こる前にはね、突発的に何か、そこに前知らせのようなものがあるという事です。例えば、お湿りがあるとするです。まず言うならば曇ってまいりましょう。ザーザーと降らんですよ。
さあ降るぞと天地が自然が前知らせを致します。さあ大風が吹くというと、それこそ大風の前の静けさと言う様な、不気味な静けさがあります。そこでなら大風の吹く準備をすれば良いわけです。これは「信心がなくてもおかげはやってある。」というこれはね、あらゆる場合がそうなんですけど、そういう場合でも天地自然は、そういう働きを見せます。だから、それを聞いた時に、これは本当に駄目なのかなと思うた。神様にお取次をさせて頂きましたらね、たんぼ田植えがありますでしょう。
雨が降らないでしょう。すとたんぼが引き割れてしまいますね。水がないからその引き割れてしまっておる。もう頭はこのように引き割れておると言う事だろうと思うた。中の植わっておるその苗というものは、もうそれこそ真っ赤になって枯れる寸前という状態であった。私はそれを頂いてから、はあこれは駄目だなあと思うた。それでも折角お婆ちゃんがお願いに来とるのですから、又重ねてお願いをさせて頂いとりましたら、上の方から水がチョロチョロではあるけれども、流れて水の入る所を頂いた。
それでその事を私は、その方と綾部さんと二人でしたから、その事を聞いて頂きました。「今ねもう引き割れておるというのが、お孫さんの状態じゃろうけれども、ここにお恵みの水が流れ、注がれたならです。これは又生き返るおかげを受けるのだから、楽しみに信心しなさいよ」と言うて返しました。まあそれから時々参ってみえられました。二、三日前でした。
丁度御本部から帰って参りましての事でしたが、丁度綾部さんも御本部から帰っておられる所へ、そこのお祖父さんですか、お父さんになる人が「綾部さん綾部さん家には奇跡が起こった」ち言うてみえた。「どうしたですか。」て言うたら「孫が助かる」と言う。おかげで熱が下がった。しかもお父ちゃんお母ちゃんが行くと分かるようになった。これは脳膜炎になっとらん証拠だ。もうとにかく医者がね「奇跡と言う事はこう言う事だろうか。」と言うてたまがっているんです。
今合楽ではねそういう、医者がたまがるような奇跡が、日々起こっとるんです。これは、人間関係の事でなんでもそうです。お礼にでてからそれこそ、泣きながらお届けをされました。「おかげで助かります。退院のおかげを頂いたならば、必ず孫を伴うて、お礼参拝させてもらいます」私は聞きよって、さみしゅうなった。ははあ孫ば連れてお礼参拝さっしゃったら、それで止めらっしゃるとばいなと思うてから。
というてです。というてなら私がそげな事しよると、又おかげ落すばのと言いよると、いかにも、脅迫するごたるですから是は中々言われません。是は本当にだからそういう意味で、御教えは頂かなければ分かりませんです。もうここでそういう意味で、ない命を助かった。開けん道が開けたという人達が確かに沢山あります。けれども信心を疎かにして止めていっておる人が、どの位あるか分かりませんけれども、それは例えば神様がね、こういう働きもできなさるんだとと言う事を実証して下さるのです。
言うならば神様が仏様が、あるものがという人にでもこればかりは、神様が無いとはいわれんと言う、神様を信ずる働きを信ずる生活ができれるようになってくるのです。これは、人間関係でしたけれどもね、十日くらい前になりますでしょうか。私が丁度不在の時に電話がかかってきた。「合楽の金光教(かねみつきょう)ですか」と言うて、電話がかかってきた。「金光教(かねみつきょう)じゃなかばってん金光教(こんこうきょう)ですよ」ち言うてから、西岡先生が言うた。
それが二、三年前にね、合楽でどういう難儀な事でもです相談にのってもらえる。聞いてもらえるという話を聞いておった。もうとにかく、夜も昼も眠られん。もう毎日がとにかく大変な難儀な中にある。これは人間関係。それで私の帰りを待っておられました。成程話を聞いたらそれこそ、貰い泣きをしようごとある難儀な問題でありました。これをねもうつまびらかに話すと、小説より面白かですばってん、これは人間関係だからね。今日参って来とんなさるかも分からんけんで、あんまりした事は言われん。それこそね「先生。あいつをね呪い殺すすべがあるなら、呪い殺したい」と言われる。
そういうまじないかあるなら、呪い殺したいほどしの苦しみだと言うのです。まっ段々お話を聞いて頂いて、朝参りをされるようになられた。そして四、五日してからだったでしょうか。その呪い殺したいという人をお導きしてみえた。二人で段々心が和んできたお話ができた。話をすればするほどに私と生まれの時から今日までの運命の状態というかもうそれこそ、あまりにもそれが似ておったのでね、その人が今度は可哀想になってきた。そうしてね私とあなたと一緒に助かりましょうやと言う事になってきた。
二人同志。本当にこれは奇跡ですよねえ。呪い殺そうごたるとか反対にね、いわば神様になる稽古をさせて頂こうかというのですから。お道の信心は確かに神様になる稽古です。「この神の事を生神生神と言うが、この神ばかりではない。皆もその通りのおかげが受けられる」と仰るのですから。これは教祖様の専売特許じゃないと言う事です。そこでね、教祖様の教えられた事を、私共が忠実に守らしてもらう。忠実に行じていく。言うならば、真の信心をさせて頂く。
真の信心とは真の信心とはと明けても暮れても、その事を思い続けておる人は、沢山おるようですけれども、中々真の信心が分からない証拠に、真のおかげが現われておらんと言う事。私はそう思うんですよ。真の信心ができたら真のおかげが、私は頂けると思う。信心と言う事を真心と書いてある。その真心というのは私共が、色々真心をつくします。私はあの人に、この頃ように真心をつくしたけれども、反対に返ってきた。
私はあの人に真心でしてあげたけれども、一つも喜びもしなさらんと言う様な真心は、まずは真心ではないと知らなければなりません。真心が通わない筈がない。真心が通じない筈がない。そこでまあだ真心が欠けておるんだ。まあだ真心ではないのだと分からせてもろうて、いよいよその真心の信心を求めさせて頂かねばならん。そこで皆さんに今日は、私がその真心を一つ、やすめで聞いて頂こうと思います。もう普通では話されん。こげな大事な事は。
なぜなら本当の真のおかげが頂けるというほどしのものですから、真の信心とはどう言う事をもって、真の信心というのであろうかもう二十年も前でした。せんぞくの古賀さんという薬局があります。あちらにお話に来てくれというので一晩泊りでまいりました。明くる朝お茶が出てお食事の時にです「大坪先生これは私共の宝でございます」と言うて、一本の白扇を出されました「金光様にお願いさせてもろうて、家の宝にしたいと思いますからこの白扇に、何か一筆書いて下さい」とお願いをされた。
所が金光様がね、その白扇の真ん中に、もう小さく「真心」と書いて、お下げになっておられます。この真心さえあればです。どういうおかげでも受けられると言う事なのですから真(まこと)の心。もう真のおかげが受けられるというのですから。所が中々その真心と言う事が分からなかったり、真の信心が分からない。私はその事がどういう意味なのか、白扇を開いてそして神様に心中祈念をさせて頂いたら、三代金光様のお声でね「真の信心とは、安心のおかげを受ける事であります。」
というお言葉を頂いた「真の信心とは、安心のおかげを受ける事であります」真の信心をさせてもらえば、いわば人間言うなら幸福のすべて。言うならば安心の大みかげが頂かれるというほどしです。だから安心のおかげが頂けてないならばまあだ真心じゃない、真じゃないと思わなければなりません。そこでですそういう安心が生まれる。そういう又おかげが伴うて、受けられる所の信心とは真心とは、天地の働きそのものが、私は真であると思うのです。天地の働きそのものが真なのです。
そこでなら神の心を心として、言うなら天地の心を心としてと言う事になってくるのであります。神の心を心とすると言う事はどう言う事か。そこに教祖はこういう言葉をもって教えておられます「天地日月になる事肝要」だと教えておられます「天地日月の心」そんなら「天の心」とは「地の心」とは「日月の心」とはどう言う事かと言う事を詮索しなければなりません。
信心させて頂くと言う事は、神の心を心としていく稽古をする事なんです。天は私は限りなく御祝詞の中でも申しましたね。もう限りなく美しゅうなりましょうやという、当時のかばめの合言葉でしたが「もう本当に美しゅうなりましょうや。」と言うたらね。もう問題はその場で解決するんですよ。よくです。とくです。問題ができるのは。もう限りなく美しゅうなるというとこには、もうそこには問題は解決するほどしのものなんです。美しゅう麗しの心とは言うなら天の心。
しかも無条件です。それこそ降るように与えておられるのが、私は神様の天の働きだと思います。それをです言うならば「地の心」それこそ黙って受けて受けて受け抜く心。それを、ここでは成り行きを大切にする。成り行きを尊ぶ。全ての事に御の字をつけて、御事柄として受けていこうという生き方。これが真でありこれが真心お信心だと言う事になります。だからね結局徹する事だと思うです。信心とは二か月くらい前だったでしょうか。私が合楽の皆さんに、この合楽示現活動というのが起こる前に、何とはなしにそういう模様が、ずうっとあっておった。
私はある時に神様から『かんてんきち』と言う事を頂いた。かんてんきちとは『歓びの天、地の喜び』と書いてあります。かんは歓喜の歓ですと。地の喜びというのは歓喜の喜ですね。『歓天喜地』と言う事。それはどう言う事かというと、神も助かり氏子も立ち行くという事なんです。わざわざそういう言葉を使われなくっても、金光教にはそれこそ「神も助かり、氏子も立ち行く」と言う様な素晴らしい言葉があるのだから、『歓天喜地』なんていう言葉は使わなくてもよさそうな感じがしたんです。
所がその明くる日の朝の御祈念に又同じく『かんてんきち』と頂きました。そのかんてんきちとはね字が違う。かんてんとは天が寒いと書いてある。きちとは危険の危である。それはどう言う事かというとです。天地の親神様がねもう寒身に耐えない。寒い思い。もうそれこそ神様が寒身。寒い思いをなさっておられると言う事。御教えにです『地球に死相が現われておる。』とも頂きました教祖様の神様の御教えの中にもです。
『天地は、はやる事もなければ、終わる事もない』けれども地球に終わりはないとはおっしゃっておられませんもんね。又御教えの中に『世の中が開けた開けたと言うけれども、開けたのではない。めげておるのだ。』と御教えて、仰っておられます。開けよるのじゃない。めげていきよる。もうそのめげてめげて、めげつくしておる程しにです。おるのが現在、世情の難儀であると私は思います。
様々な観点から見ましてもです。あらゆる角度から見ましてもです。もう本当にそれは、人間が人間の力で、お月様の世界にも行けるほどしの、言うならば、進歩した事ではありますけれども、そういう進歩だけでは、人間が幸せにはなれないという事です。私はこれば一、二か月前に研修会の時に、ここで文雄さんでしたでしょうか。何とかノーストという人がおりましょうが。あの予言者ノストラダムスか分からん。こっちは。(笑)その人が言うておる事もですね。もうこの地球は破滅する。
もう二十五年しかもてないという風に言っとるそうですね。四百年前に予言した事がです。もう的確に言うならば、百のもののうち、九十くらいは的確にあっておるというんですから。日本に原子爆弾が落ちるような事なんかでも、ちゃんと予言してあったというんですから。私は、その話を聞かしてもらいよりました、したら本当に寒い思いを致しました。ほんな事、そげな事になるじゃろうかと思うてからね。
けれどもキリスト教の御本を読みますとね、神様の目から御覧になると、私共が千年というと、神様から見ると、一年だそうです。六百年前に予言者に、その事があるそうです。それですからね、もう後二十五年しか地球が、ユーナー何というでしょうか。キリストの言葉をかって言うと、まあ御釈迦様も、やっぱり同じような事を言っとられるそうです。そういう大変な事がです、段々五千九百七十五年は過ぎとる計算になるんですよ。私は計算をしてみた。千年が一年と言う様な事になると。
だから二十五年と言う位なものは、神様の目から御覧になるなら、瞬きする暇でしょう。神様が本当に寒心に耐えないと思し召すのも無理がない事。いくら言うて聞かせても、言うて聞かせても、言うならば六千年間の間、言い続けてきたけれども分からない。まあ、言うならそういう話になるわけです。それは例えばどこまでどうか分かりませんけれどもね。けれども私はその話を聞いて、本当に私も何か寒い思いを致しました。それで、私は、御神前に出てからその事ば。神様本当にそう言う事になるだろうかと言う事を、お伺いさせてもろうた。
そしたら神様からね『氏子が、自分で自分の首を絞めるような事をするから』というお知らせを頂きました。『氏子が、自分で自分の首を絞めるような事をするからじゃ』と。そこでです。自分で自分の首を絞めるような事ではなくて、もう、広がりに広がっていく道というのが、金光大神の道なのです。親の代より子の代。子の代より孫の代と広がっていけれる道を、教祖は教えておられます。
ですからそういう道を体得し、そういう道を教えて頂いて、そういう道を私共が間違いなく歩かして頂く所の生活を、信心生活というのであります。信心生活というと又難しゅうなるけれどもね。私は先日信心生活という話をさせてもらいよった。私は三十分かかって、あらゆる角度からお話した。ここの久保山さんという方がこの村におられます。熱心に参って来ます。この頃本当に色々神様からお知らせを頂きます。私の信心生活と言う事についてのお話を、頂き頂き神様から頂く事がね『奉る通』と頂かれた。
『奉る通』道というのは、あの道路の道ではなくて、通り町の通りですね。通という字です。この通と言う字も矢張り通と読みますね。『奉る通』だと。いわば私が三十分間かかってお話した事を、たったこの二文字で、教えておられる。信心生活とはね、『奉る通』だというのです。そこで久保山さんに話したのです。例えばね、お参りをしてくるでしょう。これは神様に全身全霊を、神様にお供えしたのも同然の事。
そこでお供えしたこの全身全霊を、又お下がりを頂いて帰って、御飯を炊かせてもらう畑に出る。いうならお下がりを頂いて、ことにあたらせて頂くという生き方が信心生活です。私がしよる。私が御飯炊きよる。私がたんぼに行って草取りよる。そしてどうぞ作物が、ようできますようにというお願い。それはだからちょっと見当が違うわけです。信心生活とはです。その『奉る通』。もう一切を奉ります。もう家倉財産一切が、言うならば、神様の御物だという頂き方をいうのです。
先日甘木であちらの手続きの信心実習会があった。一晩泊りで先生達と信者さんと御一緒で、すぐ近所の教会から何人も参ってみえられます。あれは宮野教会そして朝の御祈念を頂いて、御理解を頂いてまだ信者さん方がお部屋で待っておられる。そこでです今日は合楽で、こういうお話があったと言うて共励をする。段々朝参りが多うなってきた。この頃朝お参りさせて頂きますと、それこそ真っ暗い中で四、五人の者がお掃除をしたり、御用をさして頂いとりましたが、この頃は若先生がもう。
私共がまいりますともう内殿に明りがついておる。そして一生懸命御祈念をなさっておられる。もう後姿を拝ませて頂いて「若先生有難うございます。」と言うてお礼申しよりますという。若先生もこの話を聞かれる。月次祭にも参ってこられる。私は本当にそういうね世界が、そういうお道の信心の世界が、権限されていかなければいけないと思うですね。そういう雰囲気の中で甘木で共励会がもたれたわけです。そこでそこの幾人かの合楽におかげ頂いておる方達が。
「最近、合楽におかげを頂いて、朝のお参りも多くなりました。おかげで若先生が一生懸命、打ち込まれるようになりました。おかげで、今度記念祭のいろんな準備の話も、本当にとんとん拍子に話が進んでおります。」という発表をされたわけです。さあ所がおうむから、本当に馬鹿じゃなかろうかというて、散々にやられたわけです。「甘木の初代のこういう素晴らしい信心があるのに、どうしたならば合楽までも行かなならんか。」とこういうわけなんです。
そこで又合楽で頂いとる話を一生懸命さして頂いたけれども、多勢に無勢で適わない。晩ともなった休んだけれども、眠られんあんまりやかましく言われてから、そこで神様。本当に私共が合楽にお参りさせて頂いておると言う事が、間違いならば「お夢の中にででもお知らせを下さい。」という事を願って休まれた。そしたらね神様が甘木の親先生の専用のお便所が、いっぱい汚れておる所を頂いた。お夢の中でそれは皆様の御判断にお任せ致しますけれどもです。
本当に全教一新全教一家と言う事がです、合楽もなからなければ甘木もない。こんやもない。本当に助かっていかなければならない。本当に真の信心をいうなら、打ち出していかなければならない。ところがねその話を聞いた他の、沢山の方達もです。改めて合楽と言う所は。どこか合楽はと言うて、合楽の事を聞かれたと言う事でございます。本当についこの頃までは、合楽で私が申しております事は、まるっきりいたいしされた。「あれは、金光教じゃない」とも言われた。
所がどうですか。私は昨日御祝詞を作成させて頂いておる時に、若先生が「今度、御本部から頂いてきておる御本は読まれましたか。」と言うもん「いいえ。読んどらんよ」と言ったら。御本部から、掲示板にあげるために、甘木の安武先生、それから高橋正雄先生、湯川先生というような、当時、日本一と言われるような先生方も皆、故人であります。そういう方が残されたお話をまとめてある御本でございました。それを若先生が見よったら、あら、これは合楽の御教えだと。
ついこの頃頂いたばっかりのが、ザーッとその中に沢山出ておる。私は今朝から皆さんに、朝の御理解を、そこん所を聞いてもろうた。まあだ皆さんが耳に新しい。言うならば、合楽の教会長大坪の話した事を、又それを活字になっておるものをです。本部で取り上げられておると言う事は有難い事だ。言うならば、見直されてきたという感じ。しかも沢山あります。けれども合楽教会長とは書いていない。私が死んだら書くでしょうね。故人の事だけが書いてある。
これは安武先生の御言葉これは、高橋正雄先生の御言葉。合楽のとは書いちゃなかです。そりゃまだ生きとるけんじゃろう。それはそうですよ。神様から頂いた御教えですから、おかげ頂く筈です。というようにです。なら合楽もだんだん認められてきた。なら認められてきたということはです。本当に全教一家の実があがっていくおかげを頂かなければならないという事なんです。私は、全教一新してという事はです。ただその辺りのとこだけを、ガチャガチャするだけじゃつまらん。
全教一新と言う事はね、私は教祖の御信心に返るという事。そこまで返らなければ駄目だと。全教一家と言う事は、私は、金光教教団だけの事とは言ってない。思ってない。それこそ、今のこの世界の難儀にです。立ち向わして頂く時に、今の金光教の信心で、どうして立ち向われますか。世界真の平和を願っております。世界総氏子の身の上安全も願っております。けれども、もう二十五年先。もう間に合わん。それくらいの事ちゃ。そのくらいの事ちゃ。ただ唱えるだけじゃ間に合わんのです。
そこでです。私は思うのに、ありとあらゆる宗教がね、宗教とは、私がお知らせ頂いたのに、Z『宗教とは、神が示した事を教える事だ。』宇宙の宇です。ウかんむりに示すと書いてあるでしょう。これはね宗教というのは、神。だから道徳的なものやらねぇ、修養的なものじゃないんです。神様が示して下さった事を、教えるのが宗教なのです、だから私が神様から頂いた事を、皆さんに伝えるという事。
これが本当のいわば宗教なんです。それを元にしとるけれども、あまりひねくりすぎてから、頭でっかちな頭から出てきたような事になってくると。言うならば奇跡一つ現われないと言う事に、段々なってくるのじゃないでしょうか。合楽の信心も大転換をとげました。大変変わりました。今までは合楽ではもう私は致しませんけれども、皆修行生御信者さん方は皆んな進んで表行なさいました。断食なさいました。毎朝水ごいを取られました。様々な所謂表行をなさいましたけれども、私はここ三か月あまりです。
そういう表行というものは、もうすてなければ駄目だと。言うならば信行一本で行かなければいけない。言うならば、他力本願でいかなければいけない。他力本願というても、神様がどうかして下さる。じゃなくてです。ただそれを修行というならばです。一生懸命の朝参り。一生懸命に成行を大切にさせて頂く。本気でどのような事があっても、どのような場合であってもそれこそ断食、火の行水の行しよると思うてそれを、じっとしのばせてもらうという修行です。
ところが長年水かかってきたり、断食してきとるもんですからね。そのもう水かかららな気色の悪かげんでかかるという。「それはかかるならかかってよかばってん。もうなら、合楽の信者じゃなかばのと私は申しています。弟子にはもうそげな事する者には、破門だと言っております。人間の力で言うなら我力で生み出す所のおかげというものは、それは知れたもんです。本当に神様が下さるおかげ。その下さるおかげを、限りなく受け止めていく心。それが、真であります。
それが真の信心であります、その真の信心をもって、受け止めていこうというのであります。そこで今日は真の信心と言う事を、いわば聞いて頂いたわけであります。合楽示現活動という事はです。合楽という言葉を使わなければ、他に当てはまる言葉がない。私が、善導寺でお導きを頂いた。ない命を助けて頂いた。有難い勿体ないの信心が続いた。勿体島である。そこから、私の心に喜びの花が咲くようになった。かばめがそうである。木へんに花と書いてある。
その心の喜びに、人がどんどん助かるようになった。その喜びを常に持ち続けるという事である。その常に持ち続けるという、そこまでが極楽の世界である。合楽の皆さんに私が、とにかく御神縁を頂いて言うならば、三年まっ一年でも良かでしょうね。熱心に参って来ておる人なら一年でです。もう見事に極楽に行っておると言う事です。いやまだ頂きたらんごと、それは言うだけであって、そんならあんたお金に不自由しとらんじゃない。おかげで、信心さして頂くようになって。
御神米と御神酒さんだけで、薬はいっちょん飲みよらんじゃないの。もう薬箱もなくなったじゃないの。もう薬箱を捨てるほどしに、健康のおかげを頂いとるじゃないの。あらそいもなくなったじゃないの。いやそれはあらそいが無事はないばってん、なら明日親先生にお伺いしてからと言う親先生の言葉一つで、円満に治まっていきよるじゃないの。してみると争いもなからなければ、貧乏もない。言うなら病気もない世界に住んどるじゃない。そこでです。
私共がね本当におかげの頂き足らんような思い方を止めて、不平不足を言うのを止めて、頂いておるおかげをおかげを悟らしてもろうて、その頂いておるおかげを示しあらわしていくと言う事が示現なんです。しかもこの示現と言う事はです。神仏が不思議な働きを示し現わす事だと、字引にはあるそうです。ただ、現わすじゃないのです。二十五年間、言うならば、合楽でお導きと言う事を言うた事がなかった。人にどんどん宣伝しようという事がなかった。
だからこれはもう合楽の御流儀となるものとさえ、私は思うておった。甘い物があれば、どこからでもこれにたかってくる蟻のように、こちらが甘くさえなれば、人が助かると思うておった。ところがです愈々この合楽示現活動が始まった時点から、それこそ人を見たならば、お道の話をしよう。バスの中でも電車の中でも人にお導きをしよう。お導きをせろ言うならば自分のおかげが足らんならば、合楽で現われてるおかげを薬の宣伝のように、能書きのように、すら事言う事はいっちょんいらん。
本当の事を言えばいいんだからというて、今合楽では、その合楽示現活動といういわば運動が展開されております。おかげの泉が四百部出ておりましたのが、途端に七百部もう先月は足りませんでした。所謂合楽示現活動。この勢いをもっていくならば、それこそ今日の祝詞の中にも申しましたように、それこそ燎原の火のように広がっていくでしょう。しかも、その光の輪がです。
言うならば、輪に輪をかいて広がっていく。言うならば光輪の世界がです。世界の隅々にまでも広がっていくおかげを頂くと言う事がです。和賀心時代を作るという、言うならば芯になるものだと思うのでございます。まずは自分自身がおかげを受けておる。本当に自分方こそ、極楽だという自覚に立って、もう一つ向こうに見えておるところの、合楽を現わしていかなければいけん。
その合楽とは、自分が助かるだけではない。神も助かり氏子も立ち行く。氏子と神とが仲良うする。氏子と神とが楽をしあう。天と地とが一つになって喜び合う時に、鶴亀の舞い喜ぶようなおかげにもなるというお知らせを頂いた事もございます。どうぞ、合楽示現活動という意味がお分かりになら、本気で稽古してみて下さい。そして本気で合楽示現活動に参画させて下さい。その参画させて頂くという事は。
参加とか、かけてもらうというような事じゃありません。参画という事は、その働きに預からして頂く事だと、字引に出ておるそうです。私はこの示現と参画と言う事を頂いてから、その字引を見てから、改めて驚いております。だからどうでも合楽示現活動参画のおかげ頂かして下さいと、続けて言わなければならんわけであります。もう二年になりますか。ここで五つの願いが立てられております。
第一に身体の丈夫を頂かして下さい。次に家庭に不和のなきが元と教えられるから、家庭に不和のないおかげを頂かして下さい。子孫繁盛家繁盛のおかげを頂かして下さい。どうぞ真実の御用にならせて下さい。御用が御用になりますように。そして天地金乃神様の御神願成就の事のために、手になり足にならせて下さい。と言う様な願いを、五つにまとめて、合楽の五つの願いと言っております。
この五つの願いはいや私は、それはいらんという人は誰もおるまいと思う。その五つの願いがです。合楽示現活動に参画させて頂く事のために、この五つの願いが成就しなければならないという事になりますから、決して我情でも、我欲でもないのです。神様が助かって頂く事のために、おかげを下さい。神様が助かって頂く事のために、健康のおかげを頂かして下さいという信心を、愈々身に付けて、愈々真の信心に、限りなく進ませて頂かなければならんと思うのでございます。
どうぞ。